叔父の戦場での勉強 番外編 後半
いわゆる南京虐殺というものがまったくのでたらめであったことを前回のブログで書きましたが、これが一時は日本の歴史の教科書にまで記述されていたのです。中国は最初は30万人が虐殺された言っていましたが、今では人数を水増しして120万人と宣伝してます。南京の当時の人口は20万人で、日本が占領して2~3ヶ月後には人口が急増しています。戦乱が終わって安全だから増えたのです。だいたい20万人の人口しかいないのにどうして30万人も殺すことができるのか、矛盾だらけです。
そして今では中国は日本に謝罪を要求し、二言目には『日本は歴史を直視しろ、反省が足りない』と、外交カードを切ってきます。日本は敗戦国なので、ずっと中国のこの要求を受け入れてきました。そして中国にたくさんの援助をしてきました。そのおかげもあって、今では中国は強大になり日本の安全保障を脅かしています。尖閣列島はいうに及ばず、沖縄までもが中国の領土だと言いはって、確信的利益などとのたまわっています。
話を叔父のことに戻します。叔父は広大な地域の治安をまかされ、そこに侵出する馬賊を退治する任務にあたるのですが、どのようにしてこの少ない人数で馬賊を捕まえたのでしょうか。広い土地に兵士を分散していれば、とうてい馬賊をつかまえることはできません。馬賊が出てきたときに兵力を集中して、一挙に殲滅しなければなりません。なので部隊を集中させるために、どこに馬賊が現れたかを把握しなければなりません。当時インターネットも携帯電話もありません。有線電話はありましたが、中国では上海などの租界地(外国人の住んでいる地域)だけです。そこで叔父は一計を案じました。各村に馬賊が出現したときの合図を決めたのです。色々な種類の狼煙(のろし)上げさせたり、大きな音を鳴らさせたりしたのです。そしてその各村の合図がうまくいき、めでたく馬賊を逮捕することに成功しました。
そして逮捕した馬賊たちをどうするか村々の村長に尋ねたら、『みんな殺してしまってくれ』と、言うのでした。叔父はその後どうしたのかについては聞き逃しましたが、当時いかに中国が乱れていたか想像できるできごとです。今でも中国のかなりの地域が無法地帯らしいです。叔父は治安維持は言うに及ばず、現地の中国の人たちをずいぶんを助けたので、戦争が終わって復員(日本に帰る)するときには、現地の人から惜しまれたそうです。叔父は日本陸軍の中でもとりわけ功績がありましたが、当時の日本軍は現地の人のために尽くしました。それは当然です。中国の軍隊は馬賊のようなものです。婦女暴行はするは盗みは働くは、したいほうだいだったのです。なので日本軍は歓迎されていました。それは中東のサマーワに駐屯した自衛隊と同じです。規律正しい日本人は今もそのころも変わりません。当時の人の方がよかったくらいです。
話が長くなりましたが受験生に一言、受験勉強には戦略が大事です。時間は無限にはありません。兵力集中させて一挙にやっつける。これが無駄のない勉強のコツです。そのためには確かな情報を集めないといけません。情報収集は重要です。ただ闇雲に勉強するのではなく、確かな情報の元に戦略を立ててください。そして最後にもう一言、私たちの先輩、あなたがたの祖父などの御先祖様は、どれだけ道徳的で立派であったかをよく理解し、あなたも誇りを持って受験勉強に励んでください。