一人ひとりの生徒を塾長が責任を持って個別指導しています

文京区、豊島区、新宿区の生徒が通う個別指導塾 笑顔の学習塾

叔父の戦場での勉強 番外編 前半

日本は第二次大戦で中国大陸では残虐的な行動をしたと巷間伝えられていますが、それは連合国側のプロパガンダです。総じて英米中の連合国の軍隊よりは、ずっと日本軍は道徳的でした。それは今の各国市民のモラルを注意深く観察してみれば、そこから容易に想像できると思います。叔父は当時中華民国の首都南京が、日本軍の手に落ちたあとすぐに入城していますが、道案内を地元の女子学生(中国人)にしてもらったそうです。もし南京で日本軍が一般市民を虐殺していたならば、歩いている女子学生が道案内をしてくれるわけがないし、だいたい怖くてそんな若い女性が白昼堂々と公道を歩いているはずなど、あるわけがありません。むしろ中華民国の正規軍である国民党軍より、日本軍の方が地元のシナ人に信用があったと考えるほうが合理的です。事実日本軍が行くところは治安がよくなり、地元のシナの人たちは歓迎したのです。ここ南京でも同じです。30万人の市民が虐殺されたというのは、まったくの嘘です。捏造です。一時は日本の教科書にまで記述された南京の虐殺ですが、それが捏造であるという証拠はいくつもありますが、ここではその中からひとつだけ紹介しておきます。

南京が日本軍の手に落ちてから、その当時の中華民国の政府の長、蒋介石はその後3~4年の間に100回以上白人世界に向けてプロパガンダの記者会見を開いています。しかしたったの一度も南京の日本軍の残虐行為について触れたことがありませんでした。この記者会見は欧米向けに、シナ人は日本にどれだけひどい目にあっているかということを過剰に宣伝するためのものだったので、ないこともまたあったことも誇張し捏造して広めたものです。なのにそれにおいてもさえも南京については一度も触れませんでした。その記者会見の記録は歴史的資料としてきちんと保存されています。一部については映像まであります。また中国共産党の創始者毛沢東も、戦後になって一度も南京事件に触れたことがありませんでした。触れなかったということは、なかったことなのだと判断するのが妥当でしょう。

叔父がいた場所は北支です。北支とはシナの北という意味です。そこの広大な地域の治安にあったっていました。当時はシナ大陸は無政府状態で各地に軍閥があり、馬賊や盗賊もそこらじゅうに跋扈していました。叔父の任務は東京都くらいの広さに土地を、100人くらいの部隊で治安維持にあたることでした。

叔父の担当地区にはいくつかの村がありました。叔父は地域の村長を一箇所に集めて、彼らが何を求めているか、どんな要望があるかを調査しました。それによれば彼らの一番の願いは馬賊を退治してほしいとのことでした。馬賊がどこからか侵入してきて、村の食料を奪っていったり、村の若い娘さんをさらっていったりしていました。その馬賊をつかまえてほしいとのことでした。東京都くらいに広さの地域を100人ていどの部隊で治め、馬賊退治もする。叔父は知恵をしぼって、ついには馬賊を捕まえるのですが、どういうふうに捕まえたのかは次回にお話します。

最後に受験生のみなさんに向けてですが、歴史は勝者が作るものであって、歴史の教科書もたくさんの嘘が記述されているということを知っていてください。しかもそれが日本の名誉を傷つけ、私たちの誇りを挫き、私たち日本の活力を奪っていく方向でなされているというこをしっかり理解しておいてください。

 

 

 

 

 

コメントを残す