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教育の理想 4/5

026第一回目のノーベル医学賞を、受けるはずであった北里柴三郎は、明治8年に東京大学に入学しています。彼の知識の基礎を作った時期は、幕末でした。いかにその当時の教育環境がすばらしかったかが、うかがえるというものです。また、北里がドイツ留学中に成し遂げた業績よって、アメリカやイギリスから、今にしては数億円の研究費つきで、招聘依頼があったそうです。しかし日本の国費で留学している柴三郎は、日本の医療の発展のために、本国に帰ってきました。

吉田松陰先生の門弟、長州藩幕末の獅子、高杉晋作は、27歳の若さで生涯を閉じていますが、晋作は日本のために命を失った人たちを祭る石碑の前で、石碑に手を合わせる側ではなくて、手を合わせられる側に立ちたいと言っています。晋作にか限らず、そうした公に順ずる心を持つたくさんの下級武士によって、明治維新が達成され、今に続くこのすばらしい日本の礎が作られたのです。それが、自分の利益をまず第一に優先する人間が多ければ、まず維新は成功していなかったでしょう。朝鮮半島や支那大陸で維新を起こすことはできなかったのは、おもにこの理由、自己の利益を得ることに専心している人、公に順ずることの心が欠如している人が多かったからでしょう。

日露戦争では、強大なロシア、になんとか勝利を収めたにもかかわらず、大東亜戦争(太平洋戦争)では、いたるところに、明らかな戦略ミスや作戦ミス、判断ミスがあります。日露戦争の時と比較すると、お粗末な限りです。たとえ米国との戦争に勝つことができなくても、もっとうまい戦争の進め方があったはずです。それは戦争を指導する人たちの質に問題があります。上に立つ人間が優秀ではなかったのです。この能力は学校の成績とは関係ありません。たとえば帝国海軍では、海軍大学を卒業した時の成績が、そのままいつまでも人事の基準になっていました。その硬直した人事が失敗の大きな原因でした。江戸時代に教育を受けた世代が指導した日露戦争と、近代国家として、西洋から取り入れた教育制度の下で教育をうけた人たちによって、指導された大東亜戦争(太平洋戦争)とは、指導力にも大きな能力の隔たりがあったのです。

(つづく)

 

 

 

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